慶応元年(1865年)に我がご先祖住吉屋茂平さんが書いた文章を西条史談会さんが訳してくれた文章を掲載する。
慶応元乙丑讃州屏風ヶ浦五岳山善通寺五重塔御真木・栂三尺角長五間半横峯寺おいて貰い請申候、善通寺使僧伝燈院君は真木引初申候処、山分けにて彼是弐百両程も入費相かかり、使僧も及当惑居申候処、右御霊木にて色々不思議の霊験有之候、遂に合力人も二所三所ツ〇出候様二相成,猶又寄進等も黒瀬山にても百両程も出来、彼是山分けにて二百両程も相調い申候様子に御座候様子、十二日氷見邑へ着いたし,当所にて越年致し申度候に付、拙宅・布一屋両家へ万事肝煎り世話いたし呉候様伝燈院ゟ頼出,外ならず善通寺の事故、早速致承引、格別骨折配慮致し申候、為に伝燈院ハ吉祥寺へ万事当方ゟ相賄い申候間、同人宿致し呉候様相頼み、同寺へ相預け置、御真木は御旅所へ引込み有之候所、岩(石)岡ゟ差替えの故毎事申出,是も無余儀式指揮(よぎなきしぎ)に付、御旅所の少し上手の畑往還端へ居苫(いとま)にて小屋がけ致し、正月には門松などを建、夜ハ御燈明に白昼の如く数十本の幟風に翻(ひるがえ)り、御真木の」あらたなる事,挙げて申尽しがたく病気などの即座に反掌(はんしょう)何に不寄(よらず)不思議の御霊現有之に付き、昼夜引きも不切(切らず)参詣人差湊(あつま)り、新御堂辺は不及申(もうすにお呼ばず)、〇に町内の振々敷不一形(ひとかたならず)、遂に御備餅・線香ヲ売り、御水を注ぎ申候、竹の筒杯を商い、女、童(童)一日に六百一貫文程〇設(もう)けて,是も全く御大師様の御陰と猶更信心せざるもの1人も無之、西は松山・今治限り、歩行又船などにて参詣人夥敷に御座候,明れば,慶応二丙寅二月廿七日又々引出、西条市塚迄夫れゟ船にて引き丸亀着、同処城下を引き呉候様兼々御願い候願い候様申出,専ら其の手取り前広(まえひろ)ゟいたし殊の外花美(かび)との由噂御座候
一 当村において覆輪幟(ふくりんのぼり)外木綿幟八十本ほど 寄進五十俵余賽銭三貫目余
一 西条市塚迄道々一日六七百匁有之候由
一 朧月十二日御真木拙宅前迄参り暫くの間相休み,伝燈院始め合力人など二支度酒肴出し致させ、夫れゟ町芸者おやつ・雄ま、この辺の娘の子,其外若御衆三味線・太鼓など二てはやし,御旅所迄引き,同所にても四斗樽四〇口を明け,肴二種二て存分に呑(のま)す。前ゟ御旅所迄引人々見物の人相続き、外に余程の人と評判致す、真に前代未聞のことに御座候
一真物大綱此の内ゟ所持致し候所、この度善通寺より貸し呉候様頼み参り候二付,用立申候処、最初より引綱二相用い候故殊の外大痛二ちぎれちぎれに相成候得共に、実に是は又有間敷御事にて右綱仕付(しつけ)其儘箱に収め長く秘蔵致し置く物也(終)
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