【森廣太郎】
<昭和43年10月15日発行の「公益会だより創刊号」より抜粋アレンジ>
安政6年(1859年)1月6日、父森直次郎、母満津(上島山村。三並保吉通顕の二女)の長男として生まれる。屋号を住吉屋と云い、県下屈指の大地主として遠近に〇〇した家柄である。廣太郎前後の系譜を略記すると。森直治(妻はイワ)⇒直次郎(妻は満津)⇒廣太郎(妻はゲン)氷見町岡林墓地にある森廣太郎の墓に刻む高野山金剛峰寺権大僧正清厳の撰になる墓誌銘を要約して。全人の略歴を記す。通称廣太郎,、諱(諱)義手、号薪水、天資温良にして謙譲、幼にして父母を失う、(父三十六・母三十才)小松藩の儒学者近藤篤山の次子近藤篤山の門に入り漢学を修めた。克己精励学業大いに進み、家も修め、勤勉をもって事に処した。果断以って家運の隆昌をみたが子弟の育英に心を用い,〇又学校の維持、社寺の保存者に意を用い多額の寄付をした。茶道・華道に趣味を有し、裏千家の奥十二段の許状も受領している。和歌及び俳句を能くした。平素花を愛し西条八堂山に多くの桜苗木を植栽した。後東京に遊んだが偶々病を発し小石川白田の寓居に於いて、昭和3年(1928)没した。享年七十才。三宅川ゲンを娶り、七男四女を挙げた。長男恭介家を嗣ぐ。法名霊嶺院慈薫薪水居士 因に曰く。今氷見小学校庭ある緋寒桜は広太郎の寄附植栽二なるものである。全家の墓地に、安政四年(1857年)丁巳十月建立の宝篋印塔一基があるが立派な石造美術品である。長男恭介は、号、毒華と称し(俳号は小芋)南画を能くし〇々南画院の展覧会に出品入選した。また、昭和12年(1936)にはその努力作「大根島」が文部省展覧会に入選したが、これは大作で顔料も古代瓦を粉末にして作ったもので、全く新機軸を出したものである。恭介は昭和30年3月12日(1955年)病没した。法名大雅院祥窓毒華居士
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