まだ、まだ、完成には時間がかかりますが「住吉屋の明治21年の台帳」からわかることをあげてみたいですね。
ざっと書くと。コメ年間2000俵を年4回から5回。一回600俵くらいずつ。中山川先の禎瑞の先や、宮ノ下あたりに、上島山から来た船(船名。船主が書いてます)に乗せ。神戸・大阪の米穀商に売りに行く(相手は・・・・・)。その際は。森家に11個あった蔵(氷見蔵とそのうち2個は神戸と周布にあったらしい。所在は不明)から馬車で(家の周り。特に上の川あたりにあった荷馬車業…当時の地図にあります)に頼んで運んだみたいですね。2馬、5馬とか書いてありますが。どう解釈すればいいのか?)
さて台帳の具体的な内容ですが
①第1回目は6月30日
500俵。大坂積む160俵を宮ノ下川迄、390俵を禎瑞三角迄。(船出はまだか?蔵でもあって保管だろうか?)
そのあと台帳は、畳屋に畳を頼んでます.
そのあと子盆払い(ツケの払いか?)。
➁次に7月25日、
越智郡木之浦字古江田中和吉船号大和丸ニ積み込み兵庫登〇上乗稼〇禎瑞三角迄全馬に付き5銭。総計650俵(260石)細かく皆生御報告・・西條〇野久治船号?久福丸に込上乗助
③旧7月27日分周布米210石(但し三津家川下り・・・?)細かく誰が何馬出したかが羅列。<会計報告>駄賃総計175馬分金7円〇〇銭・・等。
周布蔵米高城屋〇〇〇佐名木長兵衛〇〇〇
成美校(優秀な子弟育成のために出資)・・明治10年、育英講払い…会計報告。
佐治郎 吉田邨 氷見邨 周布邨 何度も出てくる 会計報告 総計291円41銭 銭二郎
小森池(切川の大池(はぶ池)の下の池。灌漑用に金銭で管理)報告。(今日はここまで)
全然話は違いますが江戸幕府が滅んだのは、武士の給与をコメで図ったことらしい。コメの価格が下がり(農業の増産による。)で収入が減り、カツカツの生活になったことですね。
ところで、令和の米騒動はどうやら農林中金のやめた馬鹿会長が1.8兆円の株損失をつくったことが遠因(私の推理)かもですが。そのように。また、コメが余りすぎると、農家が苦しくなるの(減反にし、補助金を出す)そのようにとてもコメは扱いにくいものです。安定した収入はむつかしいのかも。
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